繋ぎ止められた心が、気ままな迷子を望んでいたとしても。
悲しい気持ちになったので、次男を背負って夜の通りに出ました。生真面目でいる自分が馬鹿馬鹿しくなり、相手の思いやりの無い言葉を恨めしく感じ、感情の持って行き場を見失っていたたまれなくなった為でした。
日中は皮膚がチリチリと焼け付くように暑かったですが、日が沈んでからは気温も下がり、一日を乗り切った人々を労ってくれるかのように、吹く風にも涼味を感じました。微熱の籠った室内に休むより、こんな夜は思い切って風に当たってあてどなく拾い歩くのが良いようにも思われました。
一足、一足、近頃すっかり重くなった次男を背にして人通りの少なくなった車道を行きます。一足、一足、夜風に吹かれて歩いている内に、胸がカッと熱くなって、目の前が不意にかすみました。ああ、泣いてはいけないと思って、とっさに顔を上げました。背中の次男はユラユラと母親の歩みに慰められて、うっとり眠気を催したり、通り過ぎる車に驚いたりを繰り返しています。
歯を食い縛っているせいか、顎が少し痛くなりました。溜息を吐いてしまったら、目頭に熱が昇って来そうでした。涼しい風にご機嫌になった次男が、時折、身体を乗り出したり、丸い指先で自分の行きたい方角を指し示したりしておりました。「ねえ、お母さん、あっちへ行こうよ」と、無責任に私をけしかける彼にかこつけて、私はふとこのままどこかへ行ってしまったらどうなるだろうなあ、などととりとめもない事を夢想したりしておりました。どちらにせよ、家に置いてきてしまった長男を、これから独りきりにする事は到底出来ません。なかなか眠らない次男を散歩を理由に連れ出して来ただけです。私がどこかへ消えてしまったら、やはりまだまだ子供の彼は困るに違いありません。
今はほんのわずか、私の何かが欠けてしまっているだけなのだと思います。歩いている最中、物言わぬ次男に何気なく掛けた言葉。「あのさ、これからお母さんと、どっかいっちゃおうか」。私の背中に温かい頬っぺたを当てたまま、次男は聴いているのかいないのか、ただ、気だるげに身じろぎをしただけでした。
この世界には、余りにもたくさん人間が生きているので、ここで一人くらいどうにかしたところで、完全に何かが消失したようには見えません。人から言われて初めて「そう言えば」と気付くくらいのものでしょう。無くなってしまった物に、例えば、少しばかりの枝葉が付いていたところで、その周辺の幾ばくかの物が無くなった後にはしばらくの間、空白が出来るだけで、次の間には別の何物かで丁寧に補正されているのだと思います。
この涙は別に、何に虚勢を張らなくても良いモノであるかも知れません。悲しいと思うのであるのですから、悲しいままに流してしまってもいいのかも知れません。何しろ、取るに足らない者が、微々たる感情の揺れによって催しているモノに過ぎないのですから。
それでも、紙ほどに薄い矜持が、私から溢れようとするモノを懸命に堰き止めていましたので、そうまでして守りたい物が仮に目も当てられない程、くだらないモノであったとしても私はここで、全部をさらけ出してしまう訳にはいかないと考えてしまったのでした。
もう少し若ければ良かったのでしょうか。もう少し身軽であれば良かったのでしょうか。もう少し、なりふり構わない馬鹿げた人であったら良かったのでしょうか。
巡り巡って、夜道に彷徨って、幾つかの路地を一歩、一歩、踏みしめて、見慣れた道路に出た時に、背中の次男が「あ」と声を発しました。
丸い指先で、自分の家の方を真っ直ぐに指し示しました。
「還りたいの?」と訊くと、また「あ」と力強い返事がありました。
「還りたいの?」と私は、次男と私自身に問い掛けました。
しばらくあって次男が再び「あ」と指先を外灯に浮かび上がる建物の影へと向けました。誰の眼にも留まらないような、些細な悩み事の捨て場所を探して、私が彼を道連れにしたのはかれこれたったの1時間でした。涼やかな風に寝かし付けられて、通りの家々はすっかり物音をひそめてしまっています。薄ぼんやりとした青白い外灯の明かりに次男を背負った私が貧相な陰影を描きながら一歩、一歩、道に迷った蟻のように足を引きずって進んでいきます。
戻る場所が決まっているから、行き詰ってしまうのでしょうか。自分一人の命でないから、息苦しくなるのでしょうか。
泣く為に用意されていた涙の使い道を、私はすっかり見失ってしまいました。噛み締めていた奥歯が、ジンジンと痛いように感じられました。大人である事が、時々、凄く窮屈に感じる事があります。無事に大人になれた事を後悔した事はありませんが、きっと大人になり切れていない子供の私が、衝動的に喚き散らしたい時があるのだと思います。折り合いが付かない、大人と子供の「私達の」喧嘩。泣けばいいのに、と言い放つ誰かと、泣いたら終わりだといさめる誰かと。
次男が指差した先は、確かに、家路で、私の分身がもう、決められた場所へと還りたがっているのです。
夜の散歩は終わりました。
柔らかく手を取り、私を導く力に負けて。
飲み込んだ言葉は熱く、治めた傷は痛く、目を瞑るには切なく、それでも、私は「母」なので。