あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

羽化

 眠りは全部をチャラにします。眠っている状態は、外界との情報交換から隔離された状態です。刺激の流入もないですし、体力の流出もないわけです。厳密には、呼吸器を動かす微弱な「電力、火力、水力」や、循環器を活動させる労働力は必要になりますが、全くそれだけの事で、それのみに終始するわけですね。生命維持に欠かせない最低限の支出があれば、コンパクトにまとめられた股関節や筋肉は許された休息を存分に味わう事が出来るのです。

 風邪引きの1歳次男に付き添って、汗まみれになりながら眠っている彼を眺めています。発熱のせいで食事は固形物をほとんど受け付けません。ウトウトと眠っているな、と思っていたら、浅い眠りはすぐに解けるようでして、暇さえあれば不機嫌に泣き叫んでいます。鼻を垂らして、咳き込んで、涙で塞がったショボショボの両目をこすりながら、また泣いて、その繰り返しで一日が過ぎて。時々測ってみる熱は上がったり下がったり、元々高い平熱ですが、寝苦しそうに身悶えしている時は脳みそが茹で上がるんじゃあなかろうかという高温です。そんな中にでも、彼の身体は「休め」の信号を本体に送るらしく、一しきり泣き喚きの暴走が済めば次の爆発に供えるのか身を横たえ、グズりながら入眠します。活動中の火山帯と同じですね。

 活動を停止するのではなくて正確には「休止」です。体力温存と自然治癒を待つ為の本能的な初動です。うずくまる、身を隠す、じっとする、ちぢこまる。中でも最も効率が良いのが「眠る」なのでしょうね。刺激に対する処理能力も求められず、一途に防衛のみに専念出来る形状です。

 追い詰められたら、取りあえず全部を止めて眠ってみようという考えは、病気に限らず、ストレス要素に対しても応用できる考えなのではないかと私は思っています。山積したタスク、不必要な他人の圧力、未解決なままの命題、自分自身に起因する難問に対してでさえ、時に「何もしない状態」というアクションは有効であると思うのです。突き詰めてみると、根源的な問題解決には成り得ないでしょう。わずかながら設けられたブランクが、詰まれた課題を知らぬ間に軽減してくれているなんていうご都合主義はまさかまかり通る訳ではないでしょう。

 ではありますが、全部を一度閉じてみる事によって、非効率に消費されていた細かな「使途不明分の労力」は、瞬間的にも完全に供給がストップされるわけです。細切れにあれこれと引き出されてしまっていた労力、時に体力が無駄な供給を免れるだけで、いかばかり本体のダメージが減る事でしょうか。追い詰められたら、何もかもを放っぽり出して眠る事、またそれまででなくとも、目を閉じて意識を外界から内面へ転じるだけで、抱えている負の部分はいくばくかの改善を見出しやすくなると言うのは事実であると思います。

 心よりも身体の方が、命と直結しているだけあって、そういった過度の疲労に対しては敏感です。キャパシティーを超えに掛かるストレスに対し、子供ならまず眠気を催すでしょう。機嫌が悪くなり、身体のあちこちが熱くなり、やがて、耐えきれなくなって強制的に伝達機能がシャットダウンします。大人であれば、身体が多少まいっていたとしても気力や責任感や倫理観などといった面倒臭いルールブックが尻を叩いて励ましてくるので束の間の通常営業は可能でしょう。しかしそれでも最後は子供と同じように神経系統に麻薬が撃ち込まれて、身体が順々に麻痺症状を起してくるはずです。

 目標とする到達点が遠ければ遠いほど、助走は長くなります。また、消耗が深刻であればあるほど、治癒には時間がかかります。風邪を引き、熱を出して(体内の細菌を駆除する)、汗をかき(高温になり過ぎるのを冷却して止める)、食欲を減退させ(消化にかかる負荷を少なくし、その消費電力も本体治癒に回す)眠る我が子。教えられた訳でもないのに、命はきちんと「命」を守ろうとしているんですよね。

 羽ばたく前の、蝉や蝶のサナギは、もしかしたらそんな感じなのかも知れませんね。傷付いた組織を丁寧に練り合わせ、その後に控えるとんでもない変化に対応するため全神経、全体力を眠って蓄積する作業。いるもの、いらないもの、は、こちらが心配しなくとも、小さな「彼等」はとうに知っている事なのですね。

 せめて、汗にまみれて息苦しそうに眠る「彼等」が、少しでも穏やかに休息を得られますように、何に憚る事もなく「彼等」が我を忘れて自分を癒せますように。

 小さく折りたたんだ透明な羽根が、目覚めた時にたくさん南風を掴む事が出来ますように。私に出来る事はきっと、そう多くないのですけど、ただ真摯に彼等の寝息を見守ろうとは思うのです。

酷暑見舞、参らせ候。

 白、薄紅。百日紅さるすべり)の花が、湧き立つように咲いています。この凄まじい暑さに蝉でさえ、日中に鳴く事を控えているというのに逞しくも健気な花は、焼け付く陽射しの中で熱風を受けて揺らいでおります。

 先週末から1歳5か月の次男が風邪をこじらせました。その少し前は結膜炎を2週間患い、不愉快な日々を過ごしたばかり。小さい体にびっしりと汗を噴き出させて、寝苦しい身体を据えどころも無く、ムシムシと気温の下がらない熱帯夜に浅い眠りを繰り返しておりました。熱が出始めたのは土曜日の夕刻。保育園からお迎え依頼の電話があり、私が到着した時にはすでに全身が湯たんぽのように熱かったです。抱きかかえると涙目の顔を上げて私を見つめ、すぐに胸の谷間に額を押し付けてイヤイヤをしてきました。

 昨日、日曜日は一日中を泣いてぐずって過ごしました。口に出来る物は牛乳と経口補水液と少しの果物と一匙か二匙の粥。それもまた激しい咳き込みで嘔吐してしまう始末。鼻水も出始めて、グズグズが始まり、吐瀉物の付いた敷きパッドやシーツを洗濯する為に、当家の洗濯機はフル稼働。週末という事もあって、長男の保育園からは布団カバー、主人の作業着、溜まった着替え、我が家の週末掃除区分であるキッチンマットやらが列を成しての洗濯待ちでありました。であるので、なかなかに恨めしい昨今の猛暑でありますが、その時ばかりは洗濯物の驚くべき速乾具合にしばしの感謝の念を催しました。

 今日とて、猛暑と呼ぶよりも「酷暑」と言っても過言ではない陽気であります。ただただ単に暑いだけではなく、本国特有の湿気がありますからもはや息苦しさまでが押し寄せて来ますね。水分を摂っても、塩分を補給しても、滲むようにしか肌からは蒸発していきません。表皮が煮融かされてただれ落ちるのではないかと思える程の照射でありますから、厚手のカーテンを閉め切った部屋で、エアコンを点けっぱなしでまさしく緊急避難しなければ命に関わるに違いありません。まして、表面積の大きい、小さな子供は一たまりもない事でしょう。

 ふと心に浮かぶのは、先の大雨で災害に見舞われた地域の事です。衛生的にも劣悪な状況で、折しものこの灼熱であります。空調どころか、日々の飲み水、沐浴水にも不自由をしている方々がまだ大勢いらっしゃる事を想像すると、中でも幼いお子さんを持たれているご家庭はいかばかりであろう、身重の御婦人、御病気で苦しまれている方々の難儀はいかばかりであろうと胸が塞がれるように思います。

 人災ならぬ、天災では、それこそ訴えて出る場所がありません。ひたすらに救援を待つしかない中で、力弱くなっていく我が子を抱える親御さんの心労を想うともう、たまらない気持ちになってきます。

 やっと陽が傾いて熾烈な陽射しが和らぐ頃、郊外にある我が家の周囲では遠くにひぐらしの声が響きます。ようよう生き残った我々の労を、優しい音色で慰めてくれるようであります。幼い頃にしょっちゅう降っていた夕立もなく、昼間の余熱を残したままの熱帯夜が連日のようで、いずれにせよ一つの通過点なのだろうかと、次の世の先行きを一方で悲観してみたりしております。これも夏の真実の姿なのでしょうけれども、様変わりするのを少し怖いような思いで見送る昨今。打ち水を打たれた庭先に、団扇片手でスイカを頬張り、蚊取り線香を炊いて蚊を追いながら近づく雨雲をぼんやり眺めている、そのような私が知る風景が、もうすでに「かつての物」になってしまったのは寂しい事であります。けれども、我が子達が胸に刻んでいく夏も、また別の「本当の夏」の姿なのですから、それぞれに思い出す物も違い、考えなければならない事も違い、いつの日か懐かしさの中にそういった景色を思いよみがえらせる事でもありましょう。

 太陽の破片が突き刺さったように熱い体の我が子を抱けば、つらつらと考える内容の不吉なこと。嵐が通り過ぎますように、そればかりを祈りながら、熱の子が横たわる寝床を見下ろします。心穏やかに季節を愛でる日が早く訪れて欲しいものと、つらつら、つらつら。

私的言霊論

 耳に心地よいと思う声を聴くと、ストレスの蓄積された体が正常にリセットされるとか。画面を見る作業に限らず、私達は視覚的情報処理を実生活の中、かなりのボリュームで行っています。目を閉じるだけで(例えば、仮眠など)疲労回復が行えるのは、翻って言うならば、それだけの労力を「見る」という行動で消費していると言えるのかも知れません。

 目を閉じれば、視覚に割かれていた労力が残りの感覚に割り振られて加算されます。鼻が鋭敏になり、周囲の匂いを強く感じる事もあります。肌に触れる空気の流れを敏感に意識出来る時もあります。ワインのテイスティングで、つい目を伏せて味わうのは、まさしくこういった原理に基づいているとも言い得ます。そして、中でも影響を受けやすいのは、私は聴覚のような気がしています。

 音。これはダイレクトに精神に響いてくるものです。記憶に深く結びついている物が嗅覚なのだとすれば、音声は現在進行形の自分に揺らぎを与える要素であると思うのです。そもそも音は「揺れ」です。震え、波、動き。しかも、それは伝える物と言うよりも、伝わる物であると私には感じられます。特に人声の質感は、体格、性格、品格に委ねられます。仕事で受け取った電話口での連絡があったとします。相手の姿は勿論、見えません。であるのに、私達は無意識の内に、相手の性別から表情から相手がいる場所(背景)からを想像したりしないでしょうか。耳を澄ませて、相手が伝える用件以外の情報を汲み取ろうとしていないでしょうか。目の前にいないからこそ、口調や抑揚や言葉尻や相槌の間などで即座に映像を組み立てようとしていますよね。優しそうな人だと想像するのなら、その相手の声は「優しい」を表現しているのでしょう。切羽詰まっている状況が思い描けるのなら、きっと相手の息遣いや気配は切羽詰まっている様子のはずです。

 たまたま隣り合った人を素敵だと感じる瞬間、容姿のみでなく声を含めた雰囲気である場合も多いかと思います。囁かれる甘い言葉が、胸に染みいってくるような深いトーンであったり、もどかしいほどハスキーなものであったり、励まされるようにくっきりとした透過性があったならそれだけで聞き手の集中力は倍に増していくことでしょう。

 私は発泡スチロールがこすれる音が、大変苦手です。奥歯がキシキシ縮むような気持ちになってしまいます。心地よい音と対局に位置するものなのでしょうけれども、不快に感じる音声というのはそれだけで並外れたストレスになるという事です。

 不快とまではいかなくとも、不似合いであるという印象も人におかしみを与える時があります。「あの見た目で、あの声か!」と外見と声色との違和感に出会う時が日常生活にはありますよね。私の主人を例にすると、絵面は「ジャイアン」ですが、声はそれから想像するとやや高いという「ズレ」があります。体格からの影響というよりも、単純に声帯がそうであるようです(昨夜、アニメの『深夜!天才バカボン』を観たのですが、ストーリーの展開上、バカボンのパパの台詞をイケボ声優が吹き替えただけで、凄まじい身震い)。声優という職業がありますが、そういう私達の潜在意識に寄り添ったプロ集団であるというのが納得されるところですね。洋画の吹き替えが好例でありましょうか。絵と音声が「釣り合う」のがいかに肝要であることでしょう。キアヌ・リーブスが『ちびまる子ちゃん』のハナワ君だと辛いです。トム・クルーズが『北斗の拳』のラオウだと気が散ります。メリル・ストリープが『ドラゴンボール』の悟空だとカメハメ波が炸裂しそうです(でも元気玉が使えるのは羨ましいなあ)。ですから「それっぽい声」というのは実は思っている以上に重要ですよね。コミュニケーションの中で人と結びつく私達であるからこそ、相手を推し量る材料になり得る「声」というツール。

 ともすると、人となりまで表現してしまえる強みが「声」にはあるのでしょう。良い声の定義は人それぞれですが、琴線に触れる声に出会った時、手足がじんわり温かくなるように感じるのは本能的な部分までもが満たされるからなのだと思います。

 池田昌子さんhttps://www.youtube.com/watch?v=H37-jylFe_I

 戸田恵子さん(『Xファイル』スカリー役・『それいけアンパンマンアンパンマン役等)

 大塚明夫さんhttps://www.youtube.com/watch?v=JQM29XcoH7Y

 森川智之さんhttps://www.youtube.com/watch?v=PdKVP2z8UNA

 鳥海浩輔さんhttps://www.youtube.com/watch?v=GzaLNbVBFz4

 津田健次郎さんhttps://www.youtube.com/watch?v=tc10P5CdUf8

 中村悠一さんhttps://www.youtube.com/watch?v=i9LdsGuvr2Q

 井上和彦さんhttps://www.youtube.com/watch?v=HyAm1scmAIw

列挙してみれば、私はゆったりとした艶のある声が心に響くようだと分かりました。

 CMで流れるナレーション、ニュースを読むアナウンサー、注意してみるとそれらに影響されている事は割と多くあるものです。高級外車のCMであれば、深みのある渋いナレーションがふさわしいでしょうし、動物番組であれば少し明るいはっきりしたトーンが可愛らしさが際立って素敵かも知れません。災害時に、避難を急ぐ人を誘導する為、あえて落ち着いた声色を使う必要もあるでしょう。

 私の声はどういう具合で相手に届いているんだろうと、たまに意識する事があるのですよね。子供達に読み聞かせをする時の声。主人にお願いをする時の声。上司に報告をする時の声。普段身近に接する人の声を、もう、その人の一部として認識しているからこそ、にじみでてくる個性が、浮かび上がる「らしさ」が改めて、面白く感じられるのです。「言霊」が、確かにそこに、宿るんですよね。

告解

 好き嫌いなく、出された物は何でも食べる主人を、私はある種の憧れを持って眺めています。好んで食べない物はあると言いますが、見ただけで虫酸が走ると言う程、不得意な物は無いそうです。対して、私は、もうそれこそ我が儘で凝り固まった偏屈の域に居る身でありますので、選り好みが激しく、また、食卓にも注文が多い人間です。タケノコ、レバー(を始めとしたホルモン系)、アサリよりも大きい貝類、ラム肉、酢豚の中のパイナップル(パイナップルそのものは好きです)、魚のアラ(特に目玉)、ウナギの肝やフグの白子といった所謂「珍味」、一例だけでも苦手はこれだけあるので、実際の食材で眼前に並べられれば、あれもこれもと、指差したくなると思います。

 体質的にアルコールも受け付けないようです。飲める体質の方は、慣れがあれば酒が身に馴染んでいくのですが、練習とか経験値とかでは何ともし難い拒絶反応があるので(頭痛とか吐き気とか眠気とか)、駄目な物は、理屈でなく駄目なのでしょうね。

 世の中に、苦手な物が増えると、どう考えても「損」をしているような気分になります。楽しめるはずの選択肢が減るわけですから、そういう意味では残念な事なのでしょう。勿論、それは食材に限られた事ではなくて、趣味の話でも、仕事の話でも同様に苦手な物が増えて来ると、その分、自分の行動可能範囲は狭まるわけで、それは対人関係に置いても同様ではあろうと思います。

 人の中でしか生きられない我々であるので、自分の生活圏に関わってくる相手と良好な関係を築けるかそうでないかは、切実な問題です。上司、後輩、先生、友人、親戚、伴侶、中でも「親」「子」は、こじれると全部の不具合の元になってしまいかねない危険をはらんでいる関係性であるんですよね。

 親友にさえ言えなかった事が、私にはあります。信頼する先輩にも打ち明けられなかった事が、あります。結婚する前に、主人(となる彼)に生まれて初めて打ち明けました。実弟には、結婚後、ようやく、心に抱えていた事を伝える事が出来ました。

 私は、母が、とても、とても、苦手です。

 この気持ちが、はっきりしたのは、私が成人したくらいの頃でした。

 ずっとそれまでは、自分を責めていたと記憶しています。母を苦手だと思う自分は、きっと欠陥人間なのだと思っていました。母を悲しませる私は、社会不適合者であると思っていました。彼女の望む可愛らしい素直な人間に成りたくて、別人格を演じてみたり、精神分析を主体にした書籍を読み漁ったり、どのアプローチが喜んでもらえるのか日によってしゃべり方を変えてみたり、考え付く方法をそれとなく実践してみました。結果的には、様々な衝突が発生して、私は自信消失を経験しました。同じように、こんな無様な娘を恥じて、育ての親である彼女もやるせない気持ちになった事と今では想像しております。

 子供を産んでみて、私の中であらゆる仮定が確固として結論付けられていきました。親に違和感を持つ自分は「壊れた人間」だとそれまで諦めて生きて来ました。注がれる愛情を時に「重い」と感じ、時に「痛い」と感じ、絡め取られそうになる意識を断ち切って「逃げたい」と願うのは、恐ろしい程の親不孝者であると考えてきました。

 自分の家庭を築いて、息子達を授かって、曲がりなりにも「私名義の居場所」を手にした時、今の今まで、背中に覆い被さっていたあやふやなじっとりと湿った重りが、パッと砕けて小さな光る砂粒になって崩れて行ったように感じられました。

 子供を持てば、私は、親の気持ちをそのまますっくり理解出来ると、心のどこかで思っていたんですね。命懸けで守らなければならない物を授かって、煩雑な日常に追いまくられる身になれば、母が若かりし頃味わってきた苦しみや、哀しみを、我が事のように納得出来ると、何かの謎解きの手掛かりを得られると期待していたんです。

 けれども、それは違いました。

 母と言う人が、私には、もっともっと解らなくなりました。

 私は、どうしても、彼女が望む、望み続ける、理想的な娘に、成れずじまいでありました。

 落ちこぼれてしまったのです。

 子育てを間違った、と言われてしまいました。私という人間は、可愛げもなくねじ曲がっており、思いやりの無い低脳なモノとしてこの世界に仕上がってしまいました。

 母を、苦手と思う事は、人生の「損」を一つ、引き受けている事に他ならないでしょう。欠陥品であるが故に、産みの人を好きになれないのだと私は思ってきました。好きになろう、好きにならなければ、と、随分長い間、とりとめのない練習を繰り返してきたように思います。上手く出来なくて、胸が一杯になって、自己嫌悪に陥って、それでも距離を置こうという決心が付かなかったんですね。親子という無条件に波風を立ててはならない戒めが、そこに鎮座しているように思っていたのですね。

 「もう、いいんじゃない?」と、主人は言ってくれました。もう、頑張らなくてもいいのだと、彼は言ってくれました。

 そうか、私は「母と娘」であろうと「頑張ってた」んですねえ。離れてしまうのは、もしかしたら不幸な事の一つであるのかも知れません。だけども、一つの人格が、一つの人格から分離してしまった時点で、もうそれは元には戻らない「別の一人」であるんです。母に育まれ、母から与えられた命であったとしても、一度、切り離されて一人で瞬きをする自由が与えられたのだとしたら、もう「かつての自分の一部」として、執着してはならないのだと思います。

 私は、一人の人間として、母を、苦手でも許されるんです。私は、自分の意志で、彼女を傍観しても許されるんです。

 こんな当たり前の、こんな微々たる事に気付くまで、私は随分と長い年月を経て来てしまいました。母から離れる娘にしろ、娘から離れられる母にしろ、本当のところ可哀相な人なんて、どこにもいないんです。互いが互いの人生に巻き込まれているから、可哀相な人が増えて行くのだと、しみじみ感じました。

 心残りが無いと言えば嘘になります。しかしながら、こうして迷いながらでも、気持ちを冷静に記す事が出来ている状況に、私は、わずかばかりの慰めを感じています。いつの日か、このわずらいが、ほの白い哀しい思い出と成り果てますように。

 

 

 里帰りをしておりました。4カ月ぶりの実家です。子供達と主人と、私。

 長い間、秘めていた想いが、今回、溢れてしまいました。綴る内容は、人には欝々としたモノに見えるかも知れません。それでも、これは私の中の波紋であり、若かりし頃から押し隠して来た本音でもありました。

 私と、母と、もう「違う人間同士」なのだと言う事を、私はそう、もう、随分前から彼女に伝えたかったのです。伝えようとしても、伝えられなくて、行き詰って、何度も泣いて、それでも吐き出し尽くす事が出来なくて。

 全部を打ち明けられた訳ではありませんが、少なくとも、私の手枷は解かれました。

 始まりであるのか、終わりであるのか。正しかったのか、正しい物と言い切れるのか。

 これからも私は、考え続ける事と思います。

夏酔い奇譚

 手元の竿が跳ねたのに驚いて、私は思わず立ち上がった。

 支えていた竿は大きく揺れ、糸先が突き立っている水面に波紋が広がった。夏の陽にじりじりと炙られて、釣れぬ魚と根比べをしているうち、どうも居ながら寸の間の眠りに落ち込んでいたらしい。一本切りしか用意のない竿を、危うく落とさず済んだはとにもかくにも重畳である。

 「桃源郷へでも出かけていたのか」

 傍に座った侍風の男に問われた。自分がここに尻を落ち着けた折には見なかった男だ。その男も私から半間の間を空けて同じく釣り糸を垂れている。

 私は曖昧に笑って、竿先を引き上げた。餌は見事に食われている。こうして水面を透かしてみれば、もう手に取るばかり魚の影は鷹揚に群れているというのに。

 「旦那も、御退屈しのぎでございますか」

 水の面をのんびり眺める鼻筋の通った横顔に向けて、私はご機嫌伺いを口にした。生業柄、世間話は苦にならない。

 襟足の虫食いでも気になるのか、男が節の高い指で気だるげにうなじを掻き上げる。

 「退屈だから来てるんじゃあねえよ」

 薄い唇を形ばかり歪め、整った顔立ちを少しだけ私の方へと傾けた。

 気に触った事を言ったつもりはないが、侍という輩はやたらと権威を重んじる。商売人の私には及びもしない沽券というのがあるらしいから、向こう様の領地にむやみに踏み込まぬが肝要だ。

 蒼く研がれた相手の視線に怯えて、私は気付かれぬようのどに支えた唾を飲み込む。

 「こりゃまた、気の利かぬ事を」

 腰を据え直して、私は半歩ばかりを後ろへにじり控えた。

 「なんだ、別に咎め立てしたわけじゃあねえさ」

 「ああ、いえ」

 「釣れるか釣れぬか分からぬものを、気長に待つというのも手持ち無沙汰だ」

 「さようですねえ」

 「おめさんが話を向けてくれるなあ、何の障りでもねえやな」

 「恐れ入ります」

 「何を狙うね」

 くいと顎を向けられたので、真正面から初めて相手に向かい合う。今度ははっきりとした笑顔に迎えられ、私は胸をなで下ろした。細面であるが、頬の骨がしっかりとした、なかなかに見応えのある若侍である。

 「釣れれば儲けもの、雑魚の一匹でも釣り上げられりゃ夕餉のお菜が賑わうってものでして」

 「食うのか」

 「え、ああ、はい、まあ、そうですねえ、お武家様の御膳とは、こう申してはお恥ずかしいですが、比べ物にはなりませんよ」

 そうか、食うのか、と相手は繰り返し、妙な驚きを双眸に浮かべたまま、再び前へ向き直った。私もまた、彼と同種の驚きを胸に沈めた。巷の下々が当たり前に煮付けやら造りにしている川魚に、箸も付けない雲の上の方々がいるのは承知だ。しかし、こうもあからさまに、面と向かっていぶかしがられてみると、屈辱というよりももっと潔い何かを感じる。

 「旨いのか」

 木訥とした無邪気な質問に、私は笑いのこみ上げる口元を袖で隠した。

 「ええまあ、小骨は多いですが」

 当たり障りの少ない事と言えばこれだろうか。泥臭いとか、ぬめりがひどいとか、あまりおどろおどろしい事は口にせぬが吉だろう。

 そうか、旨いか、と、また相手は先ほどのように呟いて手にした竿をふらりと揺らした。

 夕餉の足しというではなくて、そうしてみるとこの若侍の釣の目的は、ますますもって憂さ晴らしか、気慰みの類であろうと想像出来る。所詮は、お上の座興であるが、肩を並べてする仕草は同じであるのだ、恐れ多い事ながら親しみが湧くようである。

 時に、ぬるい風が一陣吹いた。千切れ流れていた群雲が、強い陽射しを遮った。薄青い陰が周囲を塗り替え、先程まで油のように白く光っていた水面を風が渡っていった。

 「こりゃ、一雨来ますかね」

 庭先に広げて来た煎餅布団が気に掛かる。

 「どうだろうなあ」

 男はほんの少しばかり、その形良い眉を上げた。

 「でも、存外、主の機嫌さえそうなんだったら、天地をひっくりけえす大雨にもなろうよ」

 いったい何の事を言っているかは分からなかったが、こちらに同意を求めるように、なあ、と声を掛けられたので、私も反射的にへらりと頷いてしまった。

 あるじ、と、彼は言ったが、機嫌の良し悪しを論じるのであるから、主君か上役の何某かの事であろうと独り合点し、私は自分の針に練り餌を付けて水面に落とす。

 「なかなか気難しい御仁でいけねえやな」

 愚痴であるのか、落胆であるのか、頬の内で転がす小言に私も追従の笑いを浮かべた。

 「気苦労な事でございますねえ」

 「まあなあ、あちら様にゃあ端からこちとらの腹積もりなんぞはお見通しなんだろうなあ」

 「骨の折れるお話でやすねえ」

 「全くだ」

 飄然として見えるその若い侍は、一見、抜け作でも瓢箪でも無さげに見える。それどころか、扱いようによっては老獪な狐よりも頭が切れるに違いない。数多の客をあしらってきた癖からか、私はそういう人を値踏みする下世話な感覚に長けていると憚りながら自負している。

 ひたひたと心もとない陽の名残を照り返す水面に視線を注ぐ侍の背中を私はじっと盗み見た。帯刀こそはしているが、着流し姿に下駄履きだ。まかり間違って逆鱗に触れたとして、草履履きに草除けの脚絆を付けている私に、そうそう取りすがれようとも思えない。行商で鍛えた足腰は、仲間内では韋駄天とおだてられる程に達者である。

 そこまで思い巡らせていた私へ、甘苦い声が掛かった。

 「ほら、来たぞ」

 男が腰を浮かせた。

 水面にのめり込みそうに見え、私は声にならない声を上げた。

 若侍の見つめる先に、布を翻したような大きな波が立ち動いた。

 緩やかな流れを遡る、得体の知れない金色の背びれが見えた、かに思えた。黄金色をした刃が、暗い闇をゆるゆると引き裂いていくような陰影。漆を撒いた板の間に、光の糸が貫き通ったような。

 「な、何でございますか、今のは」

 跪いた私も、手元の竿を掻き抱いていた。

 腰元の二本差しを鞘走らぬようにしたのか、男が竿を捨てて柄に手を掛ける。

 「いさな、でございますか」

 尋常の大きさではないそれは、私が滑稽本で見知っている鯨(いさな)ほどもあった。

 「さあ、そのようなものではあろうかなあ」

 くねりながら流れて行く背びれを、男もゆっくりと岸伝いに追った。

 「おめさん、竜ってのを知ってるか」

 言葉を拾うのがやっとの私は、肝を潰して相手を見上げた。

 「竜、で、ございますか」

 「ああ」

 「あの、お寺さんの本堂の天井画なんかにある、あの、ぐるぐるトグロを巻いた奴でやんすかい」

 トンボの眼玉をたぶらかす時によくやる仕草で私は人差指を呆けたように回して見せた。

 「そうそう、あの竜さ」

 男は何がおかしいのか、私を真似て節高い指先で螺旋を描く。

 「滝瀬に登って、門をくぐって、黒雲踏んで天に駆け上がるとかいう、そいつだ」

 まさか、と、思わず、声が出た。声を発して、しまったと思った。取り様によっては、武家である男に反論したようにも受け取られる。楯突いた咎で、嬲り切りされても我が身には異論は申し立てられない。はっとして私は男の顔を仰ぎ見た。

 しかし、彼はそんな取るに足らない私を気にも留めていないふうだった。

 ただ、息を詰めて、じっと動く水面に見入っている。

 ゆらり。

 漆色をした水の表に、鈍い金色の筋が走った。

 ゆらり。ゆらり。

 時々、屋根瓦程の板状の物がきらびやかに水中にひらめいた。よもやと思うが、あれが鱗であるのだとしたら、とんでもなくべらぼうな生き物である。

 竜、などと言う事は俄かには信じられない。町人である自分をたばかって、相手が面白がっているには違いないのだ。

 私はどうとも抑えられぬ胸の早鐘を、何とか沈めようと四苦八苦していた。

 「恐れながら、旦那」

 「なんだ」

 「か、かりに、あれがその、つまり、あれとして」

 もう、私は何も言わぬのが良いのかも知れないと考えていた。頭の隅では、先走ろうとする好奇心を、身に染みた警戒心が賢明に押しとどめている。つまらぬことを言い立てて、もしも万が一、相手の腰の物が我が身に切り掛かろうとも限らない。

 いらぬ怖いもの見たさが、身を滅ぼす。

 「つまり、あれは、えっと」

 「なんだ」

 「その」

 水面を凝視していた男の視線が、一瞬、こちらを顧みた。

 「旦那は、あれを、その、いったいどうしなさるおつもりで」

 言葉にせぬでも良かったのだ。

 雲の上の事には関わらぬが良いのだ。それは重々肝に銘じておったはずであった。

 上目遣いの私の言葉を聞き届けた後、若侍の気配が変わったのが私には解った。

 「そうよなあ」

 すぐ目の前の水が、白波を立てて逆巻いた。

 「鬼を切った猛者は、絵巻にたんと描かれてきたが、今の世になって、竜を斬ったとなれば、よほど世間の退屈しのぎの四方山話にはなろうかよ」

 刀が引き抜かれる高い音が響いた時だった。

 黒々とした流れの中に、ぬらり、と、巨大な影が躍った。

 「竜殺し、見ぬが良いぞ」

 男の背に庇われて、私は、悲鳴を上げていた。

 「斬られた神の祟りに触れて、寿命が縮まぬとも限らぬからな」

 

 

 

 

 あんまり今日が暑いので、ぼーっとしながら、断片的な「何か」を書いてみました。

 蒸し暑いですね、ほとほと、日中は、たまりませんでした。