ゆらゆらと、ふるえ。
全く、容赦のないものなのです。子供達の成長スピードというものは、大人がのんびりと構えている間にドンドン加速度が付いていくのですから手に負えません。
アッと言う間に湯が冷めてしまう様な寒々とした浴室で、小さな湯船に私と、2人の息子達と、弁当箱に詰められた手毬寿司のように膝を抱えながら毎日風呂を使います。毎日の事なのですから、当然、息子達のむき身を毎度眺めるわけですが、私は自分でも呆れるほど、何度も彼等の成長を痛い程に実感させられています。女の子とは違う、何もかもがクッキリとした直線で描かれた息子達。6歳には6歳なりの色濃いもの、もうすぐ2歳を迎える人には、丸いけれども力強さの宿った筋肉の張りが、すでにきちんとあるのです。タイル張りの浴室に反響する笑い声にも、鏡に弾かれた陽の光が乱反射するような煌びやかさがあります。頭からシャワーを浴びせれば、逞しい猟犬のように身震いします。甘ったるく母親に媚びを売る時にさえ、開かれた眉は凛々しく、笑顔を浮べる頬はなだらかに涼しい。
母は、時々、愚かな程、何も出来ずに呆けるしかないのですよね。これは我が子でなくても、例えば、公園で遊ぶ同い年くらいの子供達へも、私は強い憧れと、少しばかりの胸の痛みと、引き込まれるような魅力を感じずにはいられません。子供という事実はそれだけで、不可侵の特権を与えられているのでしょうか。持って生まれた弱さも、脆い自制心も、儚い肉体も、これらが内包する透き通るような心も、全部が余すところなく「作られた」ものでなく、超常的な何者かから「与えられた」ものであると思う他ないくらいに、子供はそれだけで「完成形」なのだと、思う事があります。
ついさっきまで、生き死にの最前線で命を繋いでいた、まさしく生まれたての人達に、どうにも大人は感情を鷲掴みにされないではいられないようなのです。未熟で稚拙で、我慢も利かない、融通も利かない、どうしようもない存在であるにも関わらず、私達はそんな暴君達を、ひたぶるに愛おしいと思ってしまいます。私達の庇護なしには、明日をも生きられない、小さな王様達。
チャプチャプと、ぬるい湯の中で、他愛ない遊びを繰り返す兄と弟は、狭い湯船に膝を抱いて彼等を見守る母を何と思って見ているのでしょうか。
湯気に湿った細い髪を白い額に貼り付かせ、幼い人が見上げます。そのツヤツヤとした黒い瞳に私を映して。
(1000文字雑記)