あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

ヤバイって、マジ、ウケるんですけど。

  「ヤバイ」。

 この一言が世間に浸透してから随分時間が流れました。分類上は形容詞になるのかしら。もしかしたら形状詞とも区分出来るでしょうか。

 「あの映画、ヤバイ。泣けた。」

 「ドラマの〇〇くん、ヤバくない?」

 「何これ、ヤバイ、ウケるんですけど」

 これをAIに翻訳してもらったらどうなるでしょう。

 「あの映画、非情に感動的でしたね。涙が込み上げました。」

 「ドラマの〇〇くん、恐ろしい程に格好よいですね。」

 「何これ、信じられないです、面白すぎませんか。」

当たり障りのない意訳をすればこういうことにでもなるでしょうか。

 今はもう、形容詞どころか感動詞、果てはワンセンテンスまるまる包括してしまうほどの威力をもった単語でありますよね。

 省略の機能美というのでしょうか、物事を端的に表す事が出来るのは有益な事ではあるはずです。空間も余白も時間も、節約できますからね。ただ、作品としての文章やエンターテインメントとしての発言においては「ヤバイ」は、時に諸刃の剣でありもするのです。

 グルメリポーターが使用する「ヤバイ」は、それだけで放送事故です。もう、伏せ音「ピー」で潰して良いのではないでしょうか。脚本家や評論家がそれと意図せずに使用する「ヤバイ」は、それだけですでにボツ原稿です。書かれた作品が、伏字、黒塗り、赤ペン先生で校訂対象に成り下がってしまうでしょう。

 「ヤバイ」と似たような使われ方をする語に「すごい」がありますよね。感想を求められて「すごかったです」と一言返す、よくあるシーンですね。あれを耳にする度、私は小学生へマイクを向けているインタヴューシーンを思い出すんです。

 「面白かったです」「楽しかったです」「またやりたいと思いました」「今度はおじいちゃん達と来たいです」

 たどたどしくも微笑ましい。「夏休み、素敵な思い出がいっぱい出来て良かったね」と画面のこちら側でも温かく見守ってしまいたくなるような、あんなシーン。

 記念撮影の時には、取りあえずピースサインで首を傾げて笑ってみる安定の「定型スタイル」。

 表現の「定型」って、実は「言葉の筋力」に影響を及ぼすんじゃないかと私は思う事があります。紋切型というのは失礼が発生しにくくて、一通りの事は伝達しやすくて、なおかつ無難です。使い勝手が良いとも言えるんですけれど、この便利な事が少し曲者のような気もしているんですよね。文筆家でも劇作家でもない私がいくらか生意気な事を言うとすると、便利な言い回しに乗っかってばかりいると、言葉を操る為の瞬発力が鈍るというか、喰い込む力を持つ一言が発射しづらくなるというか、いざという時(どんな時だよ)に全部をひっくるめて寸分違わず相手へ受け渡すパワーが殺げてしまうように感じるんですよね。やや、伝わりにくい表現ですが。

 暗喩、直喩、例え話、逆説的小話、私達は意識に上るか上らないかの薄皮一枚の所で言葉を選び組み替えながら目まぐるしい速度で文章を組み立てています。その文章は自分の思考を整理する為の物である場合もありますし、相手へ意思表示する為の場合もあります。単に複雑に難解な言い回しにすれば良いというのでなくて、言い表そうとする事象にまさしくピッタリの言葉を選択して提示できれば理想的であると言う事なんですよね。

 「ヤバイ」=楽しい、格好いい、可愛い、素敵、美味しい、悲しい、イライラする、びっくりした、胸が痛い、焦った、愛おしい、困った、苦しい、幸せだ、どうしていいか解らない……。

 便利な言葉を乱発していると、奥深くに眠っているちょっと素晴らしいモノが少しずつ擦り減って行くようにも私には感じられるんですよね。けれども一方では、この短くも鋭い刃を持つ「ヤバイ」という言葉。これにはありとあらゆる複雑な意味合いを、耳にした人が自由に想像出来るという面白味も確かに存在はしているので、一概にそれを否定するばかりが能ではなかろうとも思います。

 行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。

 今時の若いモンは、と言いたくなる私達だって、かつては今時の若いモンとして馬鹿にされた世代だったはずですしね。

 一つ、これも理想として思う事なんですけれど、どちらにせよ、私は「言葉の筋力」低下を恐れてはいます。表現の仕方は様々にあるんですが「こういう言い方しか出来ないから」一定の表現に留まるのでなくて、「こういう言い方も出来るし、こういう言い方も出来るよね」の中できちんと「自分で選びながら」表現出来る自由を持っていたいなと思うのですよね。

 もっと若い頃に、練習した事があるんです。「美人」というのを表すのに「美しい」とか「魅力的」などと言う美辞麗句を使わずに「美人」を表現してみよう、とか。これは思いの外、難しくて「たおやか」とか「麗しい」とかも使用不可となってくると、果たしてどうやって美人を書き表すかが、のたうち回る程、難問に思えてくるんですよ。ただ「美しい」と言ったって、伝えたい相手によっては美しい事の基準が違うわけですし、そもそも女性らしい美しさを感じる、魅力を感じるのに「なよなよとした美しさ」「儚い美しさ」を美しい様子だと思わない場合もあるではないですか。

 そんな「ドリル」的遊びをですね、していたなあ、と今、思い出しました。

 ほどほどにしておかないと、確実に病みます。それこそ、狂気です。だから文豪には神経衰弱や自殺者が多いのかしら(不遜で不穏な爆弾投下)。

 表現者であるという事は、それにしても、やはり「言葉筋」がバキバキであった方が幅があるでしょう。ある意味、言葉のアスリートです。頭の中の松岡修造氏が眼を見開いて叫びます。「頭じゃない、感じるんだ!」

 ブログには「言葉筋」は必須ではないですが、確かにブロガーと呼ばれる人にはちょっとした「ブロガー筋」(略して「ブロ筋」)はあったに越した事はないかも知れません。ブロ筋。ブロマッチョ。ブロマット……風呂マット?

 深夜を過ぎると思考がおかしな方向へと巡ります。何度も思う事ですけれど、記事は朝に書いた方が健全です。アホに拍車がかかるので、深夜は非常に危険。

 モノクロームの自分の文章に、読む人が何かしらの映像や色彩を感じてくれるようになるのなら、私にとってはそれが「最終的な成功」だと思っておるのです。私にとって表現というのはこれが基準で、一定の判断材料でもあるんですね。伝える事の難しさ。

 ヤバイ。